日曜的変態

眼鏡のフレームのネジがいつからかなくなって、ずっと爪楊枝を刺して代用してたんだけど、今日ポロッとはずれた。少なくとも一年はもってた。
結論:眼鏡のネジは爪楊枝で代用可能。


某Xとの会話の中で、変態という単位があったとして50000変態とはどれぐらいかといったら、「セーラー服を着て、電車の中で周りから見えないようにパンツを履きかえる」ということになった。変態は奥が深い。


そういえば渋谷のBook1stが移転しましたね。渋谷に行く理由が一つ減ったなと。
移転先は109向かいのみずほ銀行あたりの地下1、2階なんですが、本棚の間が狭くなってたり、椅子がなかったり、すっごく混んでたり、検索する機械が混んでたりと、なんとも微妙な感じです。あと技術書と数学関係の本が少なくなってるのが、、、ちなみにトイレは地下2階。
これだったら渋谷は紀伊国屋かなぁ。あの開放的な感じがなかなか好きです。混んでることもあんまないし。
新宿のジュンク堂の図書館みたいな雰囲気もなかなかいいですよね。池袋のジュンク堂は混んでることが多いイメージ。

地下鉄のトンネルで携帯電話やPHSを使える日は来るのかを各社に聞いた - GIGAZINE

地下鉄で使えないのはかなり不便ですよね〜。
もちろん通話するつもりはありませんし、そもそも電車の中では携帯じゃなくても会話は静かにしろよと思うんですが、書き終わったメールをすぐに送信できないのとかちょっとイライラします。
ちなみにペースメーカーへの影響は、

実際には携帯電話が心臓ペースメーカーに対して誤動作を引き起こしたという事故が報告された事例は世界中でこれまで認められない。日本以外の地域では携帯電話使用による心臓ペースメーカーの誤作動の可能性はほとんど問題にされていないため、公共交通機関での電源オフの呼びかけを実施している地域は世界でも日本のみ、もしくは極めて稀である。

from 心臓ペースメーカー - Wikipedia
携帯の電波で誤作動を起こすほどに冗長性が低いプロコトル使ってるわけねーだろって話ですよね。そもそも他の機器に影響のあるような電波を発する可能性ってのは電話機メーカー側で対処しうると思ったり。
電車内全てで無線LANが使えたらどんだけ便利か。

http://www.isenp.co.jp/news/20071117/news04.htm

親にファミコンの電源を落とされるってのは誰しもが経験してることとは思いますが、、、
ちなみに少年犯罪については、

近年、多くのマスメディアがしばしば「少年の凶悪犯罪が急増している」といった内容を喧伝しているが、「犯罪白書」によれば、少年犯罪(ただしこれには「凶悪」とは必ずしも言い難い事件も含む)の発生は1960年代前・中盤が最も多く、1960年代後半から大幅に減少。1970年代以降もおおむね減少傾向にあり、マスメディアの過剰報道あるいは情報操作の可能性を指摘する意見もある。

少年犯罪を論ずる場合の母数となる少年期世代の人口実数についても、最も少年犯罪件数が多かった昭和35年よりも(大幅に事件数の減った)平成初期の方が少年人口が多かった(つまり少年人口は増えたのに事件数は減っている)という事実もあり、この点で「急増」という報道ぶりが的確なものではないとする意見がある(下記リンク「キレやすいのは誰だ」参照[1])。

from 少年犯罪 - Wikipedia
よくある、昔っからあることなんだけど近年の微増を急増って言い切るパターンですかね。NEETとか。
NEETについては、昔は個人の生産性が低かったために働けるようになったら働く(全員が食っていくために)のが当然だったのが、機械による生産性の向上で働かなくても大丈夫な状況がうまれたっていう見解も。つまり社会に余力ができたっていう。
もちろん国家という単位で見たときの生産能力の低下は問題だとは思います。が、この問題については俺がこれ以上つっこんでも説得力皆無なのでここまで。


話はまったく変わりますが、選挙、あるいは多数決というシステムについて。
なんらかの順序付けできる対象について、個人がそれらを選択したものの集約として全体の順序というのを決めることの困難性については、
ARROW'S THEOREM
っていうアローの不可能性定理(要は、個人が自由に順序を決めてよく、みんなが良いとしたものは全体も良いとして、ある二つ対象の順序は他の対象の影響を受けず、特定の個人の意見が全体を決定することははい、というシステムは不可能)がありますが、これを書こうとしたんではなくて。
能力がある人と平凡な人の意見を区別しないっていうシステムはどうなのかなぁとぼんやりと考えたんですが。
労働の形態が肉体労働から頭脳労働へと変遷していくことで、肉体労働ではある人が他の人の倍働くってのは相当なものだったのが、頭脳労働では10倍とか100倍とか(何かの本で1000倍って書いてあるのもあったな)そういうオーダーの差がつくってことがありえるようになってきた中で、個人が社会に貢献する能力の割合が変わったんではないかなと。
思考実験として、ある天才がある社会の他の構成員全ての総和よりも高い生産能力を持っている社会があったとして、この社会はある天才を制限するような制度をとっていていいのかみたいな。
まぁ能力がある人というのは大抵お金持ちなわけで、そういう人の意見を広めるっていうのがいわゆる社会の裏の一面なのかなと考えたり。


この話の流れで、政治と金について。
政治ってのは意見を集約して、とりあえずどっかの方向に進んでいくっていう方針を決めるものなんだから、政治家ってのはその方法としてお金を持ってるのが当然だと考えたり。もちろん政治家が個人個人を説得するわけではないのだけれども。結局金ってのは他の人に対する抑止力というか、暴力にもなり得ると思うのですよ。むしろ金が暴力に取って代わったのかな。
もちろん法を侵すのは駄目なんですが、なんていうかな、、、ある目的があったとして、そのために非倫理的な手段を使うっていうのはそこまで悪いことではないっていうイメージがあるんですよね。
ん〜、、、倫理的なことをしないことと、非倫理的なことをすることの決定的な違いが良くわからないっていうか。
この話はあんま脳内でまとまってなかったなと反省。