タイムカプセル

すごい言葉ですよね。時間のカプセル? 時間をカプセル?
個人的にはタイムカプセルを埋めた経験がないので、あれ、忘れてるだけかもしれん。
まぁ自発的に埋めるタイムカプセルってのもどうかとは思わないでもないですが。


そういや今日、電車の中で読む本を忘れて、電車で隣に座った子供二人(小学生低学年くらいかな)がDSをプレイしながらそこそこの音量で騒いでて、電車の中でのマナーと、子供の教育or躾に社会はどこまで踏み込んでいいのかっていうようなことを考えた。
うん、まぁ比較的どうでもいいというか平和な話なんだけどね。


そういや、言葉遣いって結構他人の影響受けるよね。一個前の文頭の、うん、とか明らかにK尾の影響だし。にゃ〜とかは師匠の影響ですね。ホントは違うけど。


電車の中のマナーの話、ではないかもしれない。
電車の中では静かにしていないといけないっていうマナーは、まぁ多数(話してる本人もきっと含む)の人が、他人のどうでもいい話とか別にどうでもいいよって思ってて、あれ、どうでもいいって二回書いてるな、まぁ俺も基本的に大きな声で話す人は生理的に嫌いなんだけれども、迷惑度だったら、混雑時に駅の改札付近をゆっくり歩いてるお婆ちゃんぐらいのもので、結局はどのぐらいの迷惑なら許容できるかっていう話になるなって思って。そこで迷惑に感じる閾値ってのは対象によって変わる(改札付近で高校生の集団が横一列になってるのはお婆ちゃんより許せない)のはどうしたもんだろう、と考えて。
まぁ電車の中ではここまでしか考えなかったんだけれども、結論は、他者に自己の投影をして、自分がその行動をとっていたら許容できるか、っていう閾値の集合がマナーの一面なのかな、と今考えた。喫煙よりもはるかに迷惑な行為をしていても許容してしまうのはこのためなのかな、とか。
ある行為をするときに、周囲の人全てが想定するような動作、ってのもマナーの一面でもあるな、と考えたり。まぁこっちは日本語だと作法、かな。前者は、常識? だと広すぎる気もする。


んで、子供の教育に対する社会の態度の話。
さっきの話なんだけれども、書いてない事実として、子供二人は親(と思われる人物、めんどくさいので以下親)と乗ってきたんだけど、空いてる席が二つしか無くて、子供二人を座らせて親は隣の車両に行った、という状況がありまして。
別にこれ自体は特に問題ないんだけれども、この状況っていうのは、子供が非常識な行動を取ったら、その矯正は周りの人がしてもいいっていう意思表示とも考えられるのかな、みたいなことを考えて。


うん、別に大して難しく考えるような話ではない気は最初からしてるんだけど、ネタがなかったし。


そんな平和な一日。